すすきの防災の転換点 — 昭和47年雑居ビル火災がもたらした規制強化と街の変化

1972年、すすきの中心部に位置する雑居ビルで深夜に火災が発生。飲食店やクラブが入居する複合施設で、営業中の時間帯と重なったことから、多くの人が煙に巻かれ、逃げ場を失う事態となりました。

当時のビルは避難経路が限られており、非常階段が狭い、または防火扉が設置されていないなど、防災設備の不備が目立っていました。さらに消防設備の点検体制も十分ではなく、火の回りを早める要因となりました。

この火災は、すすきののみならず全国的に大きく報じられ、行政は早急に対応を開始。消防法の一部改正や雑居ビルへの避難経路確保、スプリンクラーや非常放送設備の設置義務化など、新たな基準が次々と導入されました。

すすきの地区では、この事件を契機にビルオーナーによる改修工事が急ピッチで進められ、狭い路地裏の施設や古い雑居ビルも順次耐火・防災仕様へと改修されました。

影響と教訓

 

昭和47年の火災は、「防火対策は後回しにできない」という強い教訓を残しました。現在のすすきのが比較的安全な夜の街として機能しているのは、この出来事を契機とした法改正と街ぐるみの改善努力の賜物です。

昭和47年のススキノビル火災を取材・調査していると、「街の安全は、一度の悲劇から学び取られる」という事実を痛感します。

当時のすすきのは、経済成長の熱気に包まれ、夜の街も活気に満ちていました。しかしその裏で、ビルの老朽化や防災意識の低さが見過ごされていたのです。火災後のすすきのを知る古い写真には、改修工事中の足場や、避難階段を新設するビルの姿が多く映っています。

現在、すすきのを訪れる人々は、安全に整備された建物で飲食や娯楽を楽しむことができますが、それは決して当たり前ではなく、この火災で失われた命と、それを教訓として街を変えた人々の努力の上に成り立っています。

事件の記憶を風化させず、これからも街の安全を守り続けることが、当時を知る世代から次の世代への大切なバトンだと感じます。